早期退職制度でつまづいたNHK

早期退職

混乱の発端は何だったのか

今から2年前、NHK(日本放送協会)は、当時の前田晃伸会長が主導した「人事制度改革」のもたらした混乱で、現場の職員から相次ぐ不平不満の告発の声があがりました。

前田会長は、「スリムで強靭なNHK」を作るとして、人事制度に大鉈を振るいました。その当時、NHKには、次の経営課題がありました。

  • 地上波2、衛星波4、音声波3を抱えながらも、国民のNHK接触率がいっそう低下し、放送サービスが過剰となっていた
  • 強制的に受信料を徴収することに、国民から不満がたまっていた
  • 年功序列、部局別縦割り人事、男性優先の人事となっていた

前田氏は、人事問題のみならず、NHKにまつわる諸問題を解決しようとしたにもかかわらず、逆に状況を悪化させてしまったようです。そこで、実際に何が起きたのか、見ていきたいと思います。

放送波の整理について

NHKは、1925年にラジオ放送を1波で開始しましたが、1931年に教育放送を主とした第2放送を始めました。また、1957年にはFM放送を開始し、3波体制で事業運営してきました。

テレビ放送は、総合テレビが1953年、教育テレビが1959年に始まりました。

衛星放送は、1989年に開始しました。地上波放送の受信が困難な地域での視聴や放送文化の充実などが目的として、これまで進められてきました。

教育放送は、低コストかつ迅速にサービスを行うことができるため、開始当初は大きな役割があったことと思いますが、社会の成熟にともない、放送に頼らなくても、国民各自が教育を受ける機会を得られるようになったことから、教育放送の社会的意義は時代とともに薄れていきます。

衛星放送も、食傷気味には感じられていたものの、チャンネル増加による視聴の選択肢の増加は、国民にとってはありがたいことでした。ただし、地上波放送と内容が重複することや、地上波民放の補完となりきれない点には、不満がありました。

テレビ・ラジオともに多チャンネル化はしたものの、歴史上の役割を終えて国民の興味関心が離れていってしまった放送波を維持することは困難です。テレビの需要が減ったことに加えて、人口減に向かう時代に入り、NHKは放送波の縮小、ひいては組織の縮小を進めなければいけないフェーズに至ったのです。

受信料への不満

そもそも、NHKは民放に比べて面白い番組が少なく、「老人しか見ない」テレビとして不人気な一面がありました。

平成の長引く日本経済の低迷の中、NHKの受信料は値下がりすることはありませんでした。若者の視聴離れが進んでいるにもかかわらず、NHKの経営は盤石を保っていました。

そこに、インターネットの普及による各種動画サービスが始まったことや、コンプライアンス重視の社会風潮によるテレビ番組の凡庸化が進んだことで、一気にテレビ離れが加速してしまいました。

NHKを見ていないのに受信料を支払わされることが、社会に不満となってたまっていきました。そして、その一端が、「NHKをぶっ壊す」と騒ぐ「NHKを国民から守る党」のような過激な集団を生み出しました。

そのような反NHKの社会的潮流を肌身に感じたであろう前田会長は、旧来のNHKをぶっ壊し、新たな組織に仕立て直すことを、自分の宿命と感じ取ったのでしょうか。

NHKを人事で壊す

NHKの旧弊を悪ととらえた前田氏は、次の点をもとに改革に着手しました。

  • 報道、番組制作、技術、管理、営業の各部門による縦割り人事を改める
  • 女性管理職の比率をあげる
  • 年功序列の人事を改める
  • 管理職登用に試験を行う

傍から見ると、どれも旧弊にみられる項目ですが、実際に行うと、どれもが別の大きな問題を引き起こしてしまうのでした。

縦割り人事を見直しても、報道偏重の人事は変わらず

NHKの幹部クラスの人事は、基本的には報道出身者がポストを独占してきました。他部門よりも優秀な職員が多いこと、組織力があること、国会議員に近づくことのできる政治部などのセクションがあることなどが主な理由です。もちろん、他の部門にも優秀な者はいますが、職位があがればあがるほど、報道出身者が優位な構造になっているのです

前田氏は、主要ポストが報道出身者で占められている中、反報道の人事を実行できませんでした。自身の補佐役となる副会長は政治部出身者とし、さらに報道出身の役員を減らすことなく、従来通りの人数を維持しました。この時点で、報道偏重の姿勢は改まりませんでした。

能力に疑問符がつく者が出世する

働き方改革の一環である女性管理職の比率の引き上げも、前田人事改革の命取りの一因となりました。男女平等であれば、何事も問題は起きませんが、比率を無理やり引き上げたため、能力に疑問符がつくような女性が、男性職員を飛び越して、相次いで昇進してしまったのです

同様に、年功序列を廃止して、優秀な若手職員を登用する点でも失敗をしました。一般的には、能力が低くても昇進しているシニア層が組織のお荷物となっている印象を受けますが、シニア層を飛び越して評価できるような若手社員が大勢いるわけでもありません。前田人事制度改革においては、前田氏の目の届く範囲にいる秘書室、経営企画、人事のなどの若手職員や外部コンサルが持ち込んだ基準に見合った若手職員を登用しました。ところが、選抜された者は、現場からの評価が決して高くなかったため、飛び越されたシニア層が大きく反発する結果となってしまいました。その怒りの一端は、週刊文春などで大きく記事化されました。

前田会長よ、NHKを壊すな | 職員有志一同 | 文藝春秋 電子版 (bunshun.jp)

混乱を招いた管理職登用試験

以前のNHKでは、管理職(制度改正後は基幹職)の登用は部局からの推薦で決まりましたが、その推薦に歪みがあるとして、前田氏は管理職登用試験を導入しました。一見、部局推薦という主観的な要素を排除して、試験による客観的な評価で判断すれば公平さが保てるように見えます。

しかし、実情は、「女性優位、若手優位」の選抜試験となっており、初めから試験の事務局が見込んだ者が合格してしまうようになっていたのです。中には、試験を受ければ合格すると事務局から言われながら試験に落ちた、あるいは試験に合格したにもかかわらず管理職に登用されず、嫌気がさして退職したという話も聞こえてきます。公平公正を求められる試験とは、まるでかけ離れていたというのが実態のようです。

前田氏は何をしたかったのか

前田人事制度改革では、不要となったシニア層の追い出しとして「早期退職制度」を実施しました。この制度を使って、大勢のシニア層が退職していきました。名前を知られたアナウンス職では、武田真一さん、武内陶子さんなどがNHKを去りました。また、当ブログで紹介した生き物ディレクターの黒田さんも早期退職組です。

この早期退職制度によって、シニア層だけではなく、中間や若手層までもがNHKの将来を悲観視して相次いで退職してしまったのです。シニア層を排除するつもりが、若手層の離脱を促してしまいました。その結果、報道部門では多くの欠員が生じ、地方局は人手が足りない状況に追い込まれました。

令和5年、前田氏は任期切れで退任しましたが、後を引き継いだ稲葉延雄氏から就任早々、人事制度改革は失敗だったと烙印を押されてしまいました。

NHK会長が異例の検証、前会長改革を「本来大事にしていた理念とは異なる」…ネット展開は「発展の余地」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

一体、前田氏は、NHKで何をしたかったのでしょうか。巨大化したNHKは、時代の要請に即した組織ではないので、自らの手で握りつぶす「人斬り役」を、進んで買って出たのでしょうか。大勢の職員から恨まれても構わないという大義名分や自負があったのでしょうか。

稲葉体制も前田氏の継承にすぎないのでは

稲葉氏に人事制度改革を全否定された前田氏は、たびたび抗議の意思を示しているようです。もっとも、この稲葉氏自身も、シニア層への配慮、管理職登用試験の廃止などを行ったにとどまり、実のところは、前田流を暗に継続しているのです。

前田時代の表向きの担当者は交代させられましたが、実働部隊はそのままなのです。表向き前田改革を否定して、ガス抜きを行っただけと指摘する人もいます。

NHK会長とは何なのか

公共放送NHKの会長は、名誉職に映るのかもしれませんが、歴史的に目立つところを順に追っても、戦犯となった後に自殺してしまった近衛文麿氏、ロッキード事件で引責辞任した小野吉郎氏、国会で支離滅裂な答弁を行い9か月で辞任した池田芳蔵氏、国会の虚偽答弁や経費流用疑惑で辞任した島桂次氏、ハイヤー問題や強引な人事運営で内部で対立した籾井勝人氏など、顕著な功績をあげた人は残念ながらほとんどいません。

NHKは放送法に則って動く組織であり、関連会社も含めると約2万人が在籍する巨大事業体です。法律上の制約に加え、立法府との調整を要し、さらには組織内を統率できるほどの辣腕でないと、真の改革はできないのかもしれません。そして残念ながら、そのような人は存在しないように思えるのです。

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