日米開戦に至るまでの9か月

歴史

真珠湾攻撃が行われた12月8日の節目にあたり、F・ルーズベルト大統領の国務長官で、日米外交交渉の米国代表だったコーデル・ハル氏の回顧録を読みました。日本が真珠湾攻撃することは、事前にわかっていたのですが、改めて回顧録から事実経緯を抜き出して、整理しました。

1941年1月27日

ペルーの日本駐在公使が、米国日本大使のジョセフ・グルーに対して「日本の軍部は、日米間に事が起こった場合は、真珠湾を奇襲攻撃する準備をしている」と伝えた。

1941年2月12日

野村吉三郎・日本大使が、ベルの許に初めて来訪する。

1941年3月8日

カールトン・ホテルで、ハル=野村の第1回会談が行われる

1941年4月9日

日本側の提案を受け取る。

米国側は、この提案を許容できず、改めて交渉を進めるための4原則を日本に提示した。

  • すべての国の領土と主権を尊重する
  • 他国の内政に干渉しない
  • 通商の平等を含め、平等の原則を守る
  • 平和的手段によって変更される場合を除き、太平洋の現状を維持する

1941年5月7日

野村、ハルに日米不可侵条約の締結を提案。米国は拒否する。
野村、松岡からの電報をハルに手渡そうとするが、ハルは拒否する(実は、傍受して、ハルは内容を知っていた)
⇒米国は、電報のやりとりを傍受していたので、日本が平和的交渉を行う傍らで、軍事準備を進めていたこともすべて熟知していた

1941年5月12日

日本側が、米国に再提案

1941年7月2日

東京で、御前会議(第5回)が開かれる。南部仏領インドシナ進駐の具体策が、国策として決定された。

東京からベルリン宛の通信を傍受する。

  • 日本は、大東亜共栄圏の樹立によって平和貢献する政策を行う
  • 日本は、支那事変処理の努力を続け、自存自衛のため南進を進める

1941年7月21日

日本軍が、仏印の南部を占領する。また、フィリピン、マレー、蘭印(インドネシア)を占領する。

1941年7月22日

ウェルズ国務長官代理がハルに野村との交渉について相談をもちかける。
ハルは、「日米交渉の最中に南進を進めたのだから、もはや交渉の余地はない」と伝える。

1941年10月18日

東条内閣が成立

1941年10月21日

東郷外相が野村大使にあてた電報を傍受した。

  • 日本は、意見を述べ、立場を明らかにする点では、あらゆる手段を尽くした。米国政府に、その見解の再検討を求める以外に、これ以上手段は取れない。日本は、これ以上問題の討議に時間を費やすことはできないことを、遠回しに伝えてほしい

1941年11月3日

前駐独大使・来栖三郎を、野村の応援にワシントンへ派遣

グルー大使がワシントンに次のように打電した。

  • 日本は、日米交渉に失敗したら、全国民ハラキリの覚悟で、のるかそるかの大事をしでかすかもしれないと思う

1941年11月5日

東郷外相が野村大使にあてた電報を傍受した。

  • この協定調印のすべての準備を11月25日までに終えることが絶対に必要である

1941年11月7日

米国の定例会議で、ハルは以下のように発言した。

  • 情勢は極めて重大である。いつどこに日本の軍事攻撃が加えられるかもわからないから、警戒が必要である

1941年11月14日

日米交渉が決裂した時の中国での展開に関する電報を傍受した。

  • 中国における米英の勢力を一掃し、重要な利権(関税・鉱山など)を接収する

1941年11月15日

野村と来栖がハルを訪問した。

東郷外相が野村大使にあてた電報を傍受した。

  • 私は、先に交渉成立の期限を切ったが、今後も変わることはない。時は迫っている。これ以上、米国に先延ばしをさせてはならない。われわれの提案を基礎に、一刻も早く解決に導くよう努力されたい

1941年11月20日

日本側から新しい提案を受け取る(これが最後通牒であることは、傍受で分かっている)

1941年11月21日

来栖がハルを一人で訪問した。ハルは、何か平和的解決につながる提案がないか尋ねたが、来栖は何もないと答えた。

1941年11月22日

「回答期限が、11月29日を引き延ばす。そのあとは、事態は自動的に進む」という主旨の電報を傍受した。

1941年11月24日

11月29日の期限は、東京時間であるとの電報を傍受した。

1941年11月26日

野村、来栖に米国側の提案(10か条の平和的解決案)を提示する。

野村と来栖が、日本に打電。

  • 万が一、交渉継続中に、われわれが作戦を開始してしまうと、交渉決裂の原因がわれわれにかかる危険がある。

1941年11月28日

東郷外相が、野村と来栖に打電した。

  • 米国との交渉は中止されるだろう。しかし、交渉中止の印象を与えないようにしてもらいたい。

1941年11月29日

東条首相が、11月30日に大政翼賛会で演説する内容を事前に傍受した。

  • 蒋介石が抗日を続け、犠牲を出しているのは、英米が東アジアの民族をかみ合わせて漁夫の利をしめ、東亜の支配権をにぎろうと野望を抱いているからである。

1941年12月1日

ルーズベルト大統領が、急遽ワシントンに戻ってきたことを怪しんだ野村と来栖が、ハルに理由を聞いた。ハルは、「東條の演説が原因だ」と答えた。

1941年12月5日

ハルは、極東の出先機関に、突発事態が起きた場合の備えについて、訓令を出した。

1941年12月6日

日本が南進を開始した。

1941年12月7日

東郷外相が、野村と来栖に打電した内容を傍受した。

  • 米国の提案は、日本帝国の存立を脅かし、名誉と威信を傷つけるものだ。東亜新秩序建設によって、平和を確立しようとする日本の努力を無駄にしている。
  • 日本政府は、これ以上交渉を続けても、意見の一致に到達するのは不可能であると考えざるを得ない。

午後1時に、日本が真珠湾を攻撃したという一報を受けた。

午後2時20分に、ハルは野村と来栖に面会し、このように罵倒した。

  • 過去9か月間、私は交渉中に、一度も嘘を言わなかった。記録を見れば、わかることだ。50年の公職生活を通じて、これほど恥知らずな、偽りとこじつけだらけの文書を見たことがない。こんなに大掛かりな嘘とこじつけを言い出す国がこの世にあろうとは、今の今まで夢にも思わなかった

これが、ハルと野村の最後の会談となった。

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